宝林寺の歴史

初山宝林寺とは

初山宝林寺は、黄檗宗開祖隠元禅師と共に来朝した明国の僧独湛禅師が、旗本金指近藤家2代目近藤登之助貞用の尊崇をえて、1664年(寛文4年)に近藤家の菩提寺として開創された黄檗宗の寺院です。

創建当時は、寺領100石を有し黄檗禅の専門道場として栄え七堂伽藍も整い、5万坪を超える敷地に20棟余りの諸堂が建ち並んでいたと言うのですから、近藤貞用公の当山への帰依の厚さが窺えます。

明治になると近藤家の庇護を失った当山は、廃仏毀釈の波に飲込まれ数多くのお堂が倒壊しました。しかし、現存するお堂の中には創建当初の面影を色濃く残すものが数多く含まれ、なかでも仏殿・方丈は黄檗宗伝来初期の中国明朝風様式を現代に伝る大変貴重な建物で国の重要文化財に指定されています。

隠元禅師

隠元禅師は、中国福建省の黄檗山萬福寺の住職でした。承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝した禅師は、後水尾法皇そして徳川四代家綱公の崇敬を得て、京都宇治に9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に黄檗山萬福寺を創建しました。
禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。

独湛禅師

1628年中国福建省生まれました。黄檗宗開祖隠元禅師に従って来朝し、総本山黄檗山萬福寺の創建を助けました。
1664年に近藤貞用の招請に応じて初山宝林寺を創建し、この地の産業や文化の向上に努め黄檗禅は隆盛を極めました。
18年間住職を務めた禅師は黄檗山萬福寺の第4代住職となりこの地を後にしました。
生涯、師である隠元禅師の禅風を守り「禅」と「浄土」を兼修し修行、布教に努めた禅師は、誰言うともなく「念仏和尚独湛禅師」と呼ばれました。
1706年獅子林院にて入寂。世寿79歳。

近藤登之助貞用

近藤貞用は、慶長11年(1606年)に近藤季用(すえもち)の長男として生まれました。慶長17年亡き季用の跡職を仰せ付けられ「登之助」を襲名し、駿府城内で家康に御目見得をし、その席で家康十男頼宣に召仕えるようにとの上意あり、その日より奉公しました。
遠州五近藤の本家、金指近藤家2代目の当主となった貞用は、5千有余石の首領となり遠州に本拠地をおきました。
後に隠元禅師の日本残留に努めた貞用は隠元禅師より法名「語石居士」を賜り黄檗の厚い信奉者となり、独湛禅師を遠州に招請し、5万坪の敷地を寄進し、初山宝林寺を建立しました。
独湛禅師の布教を助け、この地の産業や文化の向上に努めた貞用は、91歳で生涯を終え独湛禅師によって当山に葬られました。

黄檗宗

本 山 :黄檗宗大本山萬福寺 京都府宇治市五ケ庄三番割34
開 山 : 隠元隆琦禅師

黄檗山萬福寺は、元来中国福建省福清市漁溪聯華村にあり、唐の太宗の時代である貞観5年(631)に、六祖慧能禅師の法を嗣いだ正幹の開創した般若堂がその始まりとされ、唐の第9代皇帝徳宗の時に黄檗希運禅師(?~856)が建徳禅寺と改め、黄檗山と名付けたと云われています。

その後、衰微、重興を繰り返しながら、萬暦42年(1614)に宰相葉文忠の助力によって、全蔵676函とその運搬経費300両が下賜され、その時の住職鏡源興慈禅師・鏡源興壽禅師によって、復興の事業が始まり、名も萬福寺と改められました。

中国明朝末に、福建省福州の黄檗山萬福寺(現在の古黄檗)で、住職として大いに禅の教えを広めていた隠元隆琦禅師が、日本からの度々の招きに応じて、江戸時代の承応3年(1654)に多くの弟子や職人を伴って長崎に渡来しました。また、隠元隆琦禅師が渡来することを聞いて、日本の各地から大勢の修行僧が弟子となり教えを受けました。

なかでも、御水尾法王や徳川将軍の帰依は厚く、徳川四代将軍家綱公より現在地(京都府宇治市)に寺領10万坪を与えられ、隠元隆琦禅師は日本での拠点となる一大禅林の創建に着手しました。伽藍建築や仏像造りには共に渡来した職人達が力を奮い、中国福建省福州の古黄檗を模し、また寺名も古黄檗よりとって、寛文元年(1661)明朝様式の禅寺「黄檗山萬福寺」を開創しました。

江戸初期から中頃にかけて、黄檗山では18名の中国僧が住職を務め、また朝夕のお勤めをはじめ、儀式作法や法式・梵唄(声明)は中国風に執り行われ、その景観を含め異国情緒溢れる雰囲気は、鎌倉以降停滞気味だった宗教界に新風を吹き込み、全国各地で黄檗寺院の建立が進められ黄檗禅は隆盛を極めました。
江戸時代の俳人・菊舎は当時の黄檗山の様子を、「山門を 出れば日本ぞ 茶摘歌」と歌っています。

今日でも黄檗宗ではそれら伝統が受け継がれており、中国・台湾・東南アジアにある中国寺院で執り行われている仏教儀礼と類似しています。